合気道に多大な影響を与えた大東流合気柔術の技法の根幹にあるのは、真っ直ぐに入っていく入身技法であると思います。
しかし佐川先生や岡本先生の合気を知る人たちと話をしているうちに、あるいは触れないで倒す稽古をしているうちに気づいたのですが、入身とはすでに調和した状態で行うべきものであり、すでに勝っている状態で行うものではないのか。
相手は正対した瞬間にこちらにバランスを奪われて、何も出来ない状態にある。確かにその状態にしておいてから次の行動を起こさないと、触れずに倒すことなど出来ないわけです。
常々から入身と転換は混然となっていなければならないと言い続けていたわけですが、指導段階においては混然であっては具合が悪い。だからどうしても分けて教えることになります。
入身はこういうこと、転換はこういうこと。初心者を指導するにあたってはそれは必要なことと思います。
しかし上級になって入身と転換の同時存在をある程度実感してくると、やはり次の段階なりの定義を行わなければならない。
そこで、改めてここで反射道の合気の定義をしておきます。

合気とは自他が対峙拮抗した状態そのもののことであり、この状態において自他が調和しているもの。
大東流の中央突破は合気を掛けたまま行う技法であり、合気道の入身にしても同様である。

転換にしても、正中線が対峙拮抗した状態であるから、側面背後への回り込みが可能なわけである。
入身も転換も合気無くしては存在し得ず、入身転換無くして合気はない。つまり「入身転換即合気」である。

合気とは相手に正対しながらも調和をしている状態です。単に正対するだけでは反発であるから、同時に同化も行わなければならない。そうでないと真の調和=和合にはならないと考えます。
合気道で大切なのは、まずは正面からの向かい合いであり、正面に立った時点での自他の和合。
大東流も同様、まず必要なのは合気であり、合気したまますべての技を施すからこそ合気柔術となるのではないでしょうか。

合気道の合気と大東流の合気は狭義の意味では同じである。合気道は合気を修得する道でもある。
合気によって生まれる力こそが「呼吸力」である。
そして「呼・吸・力」とはすなわち「入身・転換・反射」である。
呼吸力の養成こそが宇宙の「気」に合致した道であるということなのである。

合気道開祖植芝盛平先生は次のような道歌を残されています。

「太刀ふるひ前にあるかと襲ひくる敵の後に吾は立ちけり」

まさに入身転換の極意、合気の極意を表された道歌であると思います。