合気道は、万有愛護の精神を培わねばなりません。
では万有愛護とはなんであるか。それはこの「宇宙の心」のことです。宇宙の心を「天意」すなわち「あい」といいます。
宇宙の心は公平。つまり「それなり」にということですね。けして平等などというものではありません。平等というものは、宇宙の公平というルールが全てのものに適応されているというものでしかないのです。
この宇宙の公平さを身につけるために、合気道家は日々の実践稽古を行うのです。
合気道開祖は、「敵をして戦う心無からしむ、否、敵そのものを無くする」と、具体的にその方法を表されました。だから合気道の稽古は「敵をして・・・」の実践稽古であらねばならないのです。
ここで大切なことは、「敵をして・・・」という言葉は、敵を作らないということではないということです。
多くの人がこの部分を勘違いしています。だから合気道の稽古においても、ちゃんとした攻撃を教えなかったり、合気道は先手攻撃であることを教えない指導者が存在し、そのいい加減な教えを単純に鵜呑みにする修行者が多いのです。

敵とは一体何であるか?
語源的には、「タ」の「キ」でしょう。つまり自分以外のものということであると考える。「カタキ」なども同じ派生ではないでしょうか。つまり自分以外はみんな敵なのです。また自分自身の中にも敵は存在します。人間誰しも良心と邪心とを持っているものです。そうでなくてはこの弱肉強食という宇宙の公平の下では生きていけません。良心と邪心・悪心は相互関係で結ばれており、どちらかが欠けてもいけません。
自分以外の他人(敵)の存在もそうです。他人がいるからこそ、切磋琢磨もし競いあい、ともに向上することが出来るのです。
では何がいけないかというと、敵愾心や邪心・悪心に凝り固まること。敵や邪心を見て見ぬふりをすることです。それは宇宙の浄化システムである、「循環」の働きを阻害することです。
逆に仲良しを過度に賞賛することや良心・善心のみを見ることも、一種の凝り固まりです。
そのことを踏まえて、もう一度「敵をして戦う心無からしむ、否、敵そのものを無くする」の言葉を考えていただきたいと思います。
この言葉の実践を行うにあたって、もっとも最初に必要なのは、「敵」の存在であることに気づいていただきたい。つまり敵の存在がなければ、稽古そのものが出来ないのです。

合気道の稽古は相手の攻撃を誘い出し、その攻撃を無害なものに転化する稽古です。そして外面上の攻撃だけでなく、心の内の敵意さえも転換せしめることです。
ゆえに威力のない攻撃や敵意のない形ばかりの打ちや掴みでは、合気道の稽古になりはしません。心のうちの敵意までも転換出来ねば、ただの座興でしかないのです。

養神館合気道の宗家、故・塩田剛三先生も「自分を殺しに来た者と友達になるのが、合気道の極意」と言われています。その極意を体現しようと思えば、自分を殺しに来る者が必要になってくる。果たして塩田先生にそんな者の存在があったかどうか、塩田先生が本当に体現出来たかは知るよしもないですが、意味として考えればそういうことであり、演武を行うにしても、弟子の方々は本気で殺しに掛からないと、真に迫った演武は出来ません。合気道の稽古において、敵意をもつこと、敵となること、敵を育てることも、重要なことなのです。

合気道は敵との戦いを避ける道ではなく、争いから逃げる道でもありません。戦いを終結させ争いを治める道であり、治めるということは、現実に戦いや争いがあるということです。
だから現実から目を背けてはならない。逃避してはならない。ましてその道の修行者であるなら、積極的に戦いや争いに身を投じ、治める稽古を積むべきでしょう。

また、戦いとは殺し合いではない、「タ」と「タ」が「カワス」こと、つまり情報交換・コミュニケーションです。
相手の打ちや突きや掴みは、相手が自分に情報を与えてくれようとしているのです。だからしっかりとその情報を受けて、またこちらの情報を返してあげねばなりません。その情報交換で互いが互いを理解し合うことが出来ます。和合・協力の前段階として欠くべからざるものです。

ゆえに戦いを拒否する者、コミュニケーションを拒む者。これは万有愛護の宇宙の心にそってない者なのです。
戦いは手段、目的は和合。手段と目的は往々にして、相反する形を取ることもあります。一部分に囚われることなく、大局的なものの見方が出来るよう、常に様々な角度からツッコミを入れる稽古を怠りなく。

ネットでの掲示板のやり取りもそう、稽古でもそう。素直でない人がいますね。
素直に自分の出来ることを出せばよいと思うのですよ、隠し事をせずに。
そうすれば「反射」が起こり、相乗効果で互いが向上していく。
自分だけ吸収しようとしても、自分のキャパ以上のものは吸収出来ません。人は要らないものもたくさん抱えているものです。
要らないものを大事に抱えていたら、新しいものは吸収出来ません。だから僕はどんどん出す。僕にとって不要なものでも、それを必要とする人は必ずいる。
他の人が不要なものでも、僕には必要なのかも知れない。ペットボトルやアルミ缶など、かつてはゴミのようなものも、今ではリサイクルされていますよね。生ゴミなども見直されています。普通では使えないものを、使えるものにするのもリサイクルでしょう。
まだまだリサイクルということが、我が国には定着していませんね。 いや、かつて我が国はリサイクル先進国であったはずなのに。だから我が国で合気道が生まれたのに。

合気道は「めぐみ」を大事に考えなくてはいけません。「めぐみ」とは「めぐるしくみ」である。つまり循環のことである。循環こそが天意(あい)である。
「与えよ、されば与えられん」であります。僕の合気道の術理の根幹であります。だから相手を突き離してはいけない。離すのは「死」です。
一教から四教の教えは「生」から「死」の教え。四教はトドメです。