一般的に合気道は試合形式の競技を行わないですが、行う合気道団体もいくつか存在します。
僕は合気道が試合を行わないのは、単に試合をやると試合の勝ち負けに拘ることが多くなり、合気道の理合そのものに対する理解が遅れるからだと考えています。 
実際試合でいくら勝ちをおさめる技術があっても実践の場で使えないことはいくらでもあります。所詮試合は試合だということです。
合気道は実社会の実践において勝つことが出来なければ意味がないと思います。 

しかしそれに対して、「合気道は争わざるの理」であり、試合をやるとその理から外れるから試合をしないという意見もあります。
僕はその意見に大いに疑問があります。 
争わざるの理というものは実践の生活で行えるようにすべきであって、実践で活用するために、道場の稽古等ではどんどん争って戦って、争いや戦いの本質を知る稽古を行うべきだと考えています。
それはネットのやり取りでも同じだと考えています。所詮ネットのやり取りは相手が見えないバーチャルの世界。このようなお遊びのような世界で争いを避けるなどと言っていては、本当の実践の時も逃げてしまう癖がつくのではないでしょうか?

今の世の中、自分の意見を堂々と言えない人、相手の目を見て話せない人、人と深く関わることを避ける人などが非常に多い。
複雑な人間関係の中で生きることにストレスを感じ、そこから逃避しようとする人。そしてそれを逃避であると認識できない人が非常に多いのです。認識できないからこそ「やられる」んですね。
逃避というのは一時しのぎには有効です。しかしいつまでも逃げてばかりではそのうちにやられてしまいます。 
そのような人たちが増えてきたからこそ、様々な問題が噴出してきていると思います。
またそれに真剣に向き合う人がいないから問題解決に至らず、問題の数と種類がますます増加してくるのだと思います。
合気道が争わない理というのは、本当にそれを理解し実感し、いつでもどこでも体現出来るまでに一生を掛けてもなお至らない目標というべきものであって、それでもそれに至ろうとすれば、様々な諸問題と正面から真剣にぶつかり合う、日々瞬間瞬間の勝負を経なければならないと考えています。
もちろん、要らぬ勝負はしなくていいでしょうが、その要る要らぬの判断力も実体験なしでは培われないでしょう。

僕が合気道か合気道でないか判断するのは、その技の中に合気道の説く理念・理合が含まれているかどうかです。 
合気道の説く「愛」とは宇宙の心、そして宇宙の心とは循環による発展、生成化育であると思います。そして生成化育の中には衰退と死も含んでいます。生まれて発展するだけでは宇宙の姿の半分でしかありません。
衰え死を迎えるからこそ新しい命として蘇る。だから発展し続けることが出来るのだと僕は考えています。

「誕生、成長、衰退、死」これらがすべて技の中に含まれている、いや含まれているとして行うのが合気道の技でしょう。 
これはそのまま一教~四教の教えでもあり、天火水地、△○ロ、正勝吾勝勝速日、入身転換反射の教えでもあります。

僕は僕の述べた合気道の理念以外のものを合気道とは考えておりません。 

ただし他の方々が何を何と呼ぼうと他の方々の自由と思っております。 
合気道はどこかが商標登録しているわけではないでしょうから。