合気道は、掴まれてからの稽古と考えている人もいるかと思います。
その理由としまして、自分からは攻撃しないという精神性の発露と考える方もいらっしゃいます。
合気道は愛の武道と言われることも考えますと、なるほどそういうこともあるのかと、納得される方も多いのかも知れません。
合気道はこの地上から一切の争いごとを無くすために創始されました。したがって自分からは攻撃しない、戦いを挑まないということは創始の目的に沿ったものとも思われます。
しかしながら、それは実生活における理想と言うものであって、稽古の場においてまで、そうするというものではないと思います。

合気道は戦いを避けるための方法を教えるものではありません。攻撃をさばく方法を練習するものでもありません。
攻撃するエネルギーや争いの心までも転換し、マイナスをプラスに変えることにより、より宇宙の発展に貢献するための方法を考察し、身につけるべきものだと思います。
ですから戦いや攻撃の本質というものを知る必要があります。
いい加減な攻撃でその本質に迫れる訳はないのではないでしょうか。

それならそれで、受けが真剣な攻撃をすればよいのではないかとの反論があるかも知れません。
しかし、相手に真剣な攻撃をさせるには、まずこちらが真剣であることを伝えなければなりません。それだけの仕掛けが必要だと思います。
相手の顔面を的確に砕くだけの気迫をもっての正面打ちをおこなうからこそ、相手は防ぐ気になるのだと思います。
防がなければ相手の拳が腹をえぐる可能性があるからこそ、その手を掴もうとするのだと思います。
なんの気なしに出した手をなんの気なしに掴んで始める稽古など、何も考えることなしに、体だけ動かす踊りに過ぎないと思います。

正面打ち一教に関して、翁先生の口伝が伝わっています。

「我より攻撃する」
「右足より一歩前進しつつ右手刀をもって敵の正面を打ち、左拳をもって脇をつく」

これは合気武道時代の教えではありますが、現在の合気道でも考え方は変化していないと思います。形のうえでは、相手が打ってくるのを待つように見える稽古をされる道場もありますが、それは見かけ上の話で、僕には、はっきりと取りをおこなう人の気のおこりと力の流れが分かります。

合気道の技の理論は打ちも突きもそして掴み技も全て同じ理論と考えています。
これは合気会現道主もはっきりとお話になっていることです。道主の研鑽会等に参加された方も多いと思いますが、僕も道主が何度も強調されてご指導されていることを存じております。

また、掴み技は鍛練のため、という理由もよく聞きますし、なるほどその通りと言えるでしょうが、この鍛練というものがまた人それぞれ違った意味で解釈していることも多かろうと思います。肉体的なもの精神的なものそれらを含む含まないに拘わらず技的なもの。
ややこしいので、今回は肉体的なことに限って考えてみます。

合気道の修練は剛・柔・流・気の順に修練していくのがよいとされていることも多いと思います。
翁先生はそれぞれを固体・柔体(ジェル状のもの)・液体・気体というふうにご説明されたこともあります。
これらの言葉は合気道や武道だけでなく、この世の中のすべてのものにあてはめることも出来ますし、僕の一教から四教の技の捉え方もそうなのですが、具体的なことは今回は割愛させていただきます。

剛の修練は肉体的な鍛練で、合気道の修練において欠かすことの出来ない、土台であり基盤ともなるものです。
魂魄という言葉がありますが、簡単に言うと天地の万物は全て魂魄をもっていて、それは人も同様です。
魂とは「コト」のたましい、魄とは「モノ」のたましいのことで、剛の修練は魄の養成ともいわれます。
具体的に言うと、相手に力いっぱい掴まれても、らくに動ける体を作ることが、魄の養成の目指すところです。
しかし、こちらの筋肉的な力が強いかららくに動けるのではないということをよく頭に入れておかねばなりません。そこのところを勘違いする修行者も多いと思います。
筋肉的な力は老若男女や体格などで、人それぞれ大きく違います。
肉体的な鍛練といっても別に筋肉を鍛えるわけではない。鍛練によって筋肉も発達するでしょうが、それ自体が目的では決してないことを知ることが必要だと思います。

それでは一体何を鍛練するのかということになりますが、魄の養成の目的は一般でもいわれるところの、「自然体」「統一体」「不動体」の養成です。
自然体や統一体は合気道においては基礎中の基礎。全ての技は自然体でもっておこなわれるもので、技の始まりから終わりまで、自然体が乱れることなく崩れることなく。そしてそれが、日常の生活においてもそうありたい、そうあるべきという気持ちで稽古に取り組んでいただきたいと思います。

相手に手を掴まれての稽古は、鍛練という意味においてはとても意義のある稽古だと思います。相手にどんな強い力で掴まれても平常心を崩さず、相手の力と和合し、物理法則に従って動くための鍛練です。
ここで精神的な部分も出てきます。しかし多くの人が勘違いするところだと思いますが、合気道のいう精神的なものと肉体を動かすための心の在り方とは別の次元の話ということを知っておいていただきたいと思います。
全てのものに剛柔流気が存在すると申しましたが、剛の修練の中にも魄の養成の過程においても、剛柔流気は存在します。
合気道はまず相手に合わせることから始めます。相手の体に合わせる、力に合わせる。そして相手の流れに合わせる、気に合わせる。
ここまでが合気道の修練の土台となる、剛の修練、魄の養成、肉体の鍛練ということです。

今まで述べてきたように、掴まれてからの稽古は魄の養成にとって欠かすことのできない鍛練です。しかし、鍛練というからには掴む方がいい加減では鍛練になりません。
合気道はいわば攻守入れ替わりながら、互いに鍛練していく稽古の形をとっています。そして捕りだけでなく受けも大切な稽古であり、鍛練をしていることに変わりはありません。
掴まれるほうも魄の養成なら、掴む方も同時に自然体、統一体、不動体で掴む魄の養成であると思います。
従いまして、掴まれてからの稽古が鍛練として重要であることは大いに認めますが、掴むことも同様に重要な鍛練なので、合気道の稽古が「掴まれてから」始まるということの理由には適当ではないのではないかと思います。

合気道の稽古は互いに交互に行うのが普通の稽古だと思います。従って掴むにしても掴まれるにしてもほぼ同時に鍛練の程度が向上していくものと思います。
掴ませてからの稽古が掴む技術の向上に繋がり、掴む技術の向上が掴ませてからの技術の向上に繋がるものと思います。

以上長々と述べてまいりましたが、合気道が、「掴まれてから~」稽古するものということそれ自体が、違うのではないかというのが本当の僕の意見です。

戦前の合気武道は多くの場合、何か他の武術の心得のある方々によって稽古されてきたことは事実でしょう。
そのことは昔は合気道以前にある程度の魄の養成が出来ていたということであると思います。
たとえ武術の心得がなくとも、昔の人は子供の頃より農作業の手伝いもし、薪を割る手伝いもし、また遊びも体や自然のものを使った遊びをしてきたでしょう。これは今の現代人と大きく違います。
僕の道場では、入門者にまず教えることは、相手の腕を掴んで技を掛けてもらって、力を入れて踏ん張ることなく、素直に受けを取るということです。

現代の合気道では現代人の生活様式から考えて、ものの掴み方から教えるほうがよいのではないかと思います。剣の振り方も教えるべきでしょう。
ものをしっかり掴むということはどういうことか。そしてしっかり掴んだ状態で振り上げ振り下ろしをするということから、合気道の動きを教えていくほうがよいと思います。
僕もそうですが、合気道をされる人は今まで運動が苦手だったという人が多いのではないかと思っています。
野球もやらない、テニスもしない、ゴルフの打ちっぱなしにも行かない。まして農作業で鍬や鎌をふるったことなどないと言う人がたくさんいます。
何ごとでもかなりの経験のある人なら、これこれと例を挙げて教えると、ああそうか、と解ってくれることもありますが、何もないでは最初から教えていかなければなりません。子供に教えていくのと同じです。
今の子供には雑巾の絞り方からも道場で教えていかねばならないかも知れませんものね。

このように稽古というものは人に合わせ時代に合わせ、そして必要に合わせて、常に変化をしていかなければならないものと考えています。