僕はよく稽古で、

「人を人として見るな、単なる物体として扱え」

と指導しますが、

「でも、精神の部分も大事なんじゃないですか?」

と質問されることも結構あります。

「はあ?精神ってなんや?」

と問い返すと、

「いやあ、そのう・・・、やっぱり精神的なぶつかりが・・・」

とかなんとか。

「物として扱えへんから、そういう問題が起こるんや。相手が物やと思うたら、ぶつかりなんか起こるかい。相手が人やと思うから、やっつけたろうとか、負けたらあかんと思うんやろう。あんた、そこらの壁にこんちくしょうとか言うてぶつかっていくか?そんな奴見たらアホやと思うんちゃうか。」

「ええか、人やと思うて相手の感情やら気持ちやらを感じようとしてしまうから、ただの物体として見られへんし、自分も感情や気持ちで反発してしまうんや。相手の攻撃かて、ほんまはだだの物体が移動してるだけや。ほんで動いてる物体も一瞬一瞬は静止しているただの物や。そんなもん冷静に観察してたらなんぼでも対処出来るんや。」

「そらな、いきなり急に来られたら、慌てることもあるかも知れへん。そやけどそんなもん、最初から注意して見てたらええねん。はじめから目をつけとったらええねん。普段からそういう心掛けもなく、ボケーとしとるからいざというときに慌てるんや。そういう普段からの気配り心構えを合気道は学んでいくんや。それが先々(さきざき)の「気」っちゅうもんや。」

「はっきりとした形のあるもんを冷静に観察することも出来んと、形のよう判らん相手の気持ちや感情が読めると思うんか。目に見えるもんが見えんで、見えへんもんが見えるんか?何が精神や、そんなこと考えるのは、100年早いわい!」

ネットの上でもわけの判らない人がおりまして、自分の読解力がないのを棚にあげて、人の言葉を曲解して文句をつけて来ます。
だいたい普段から見てたら判りますね。勘違いレスをつけてる人、とんちんかんな文章を書く人、一言発言しか出来ない人。
そういう人に限って、自分の視点からすべてものごとを勝手に判断して、やたら感情的になったりする。ちょっときつい言葉を掛けたら、すぐに喧嘩腰になる。中には「心が傷ついた」と言う人もいます。
そんな脆弱な心のもんが肉体を鍛えて技だけ身につけるなどというのは、世の中にとって害毒でしかないのではないかと。なんとかに刃物というものではないかと考えてしまうのですが。

ネット上のやりとりなんてただの文字です。ただの文字くらい平気な顔して分析しましょうよ。ただの文字に人の感情をみいだそうとするから、変な解釈しか出来ないのではないですか。
それは自分自身の心の投影です。自分が感情を文字に表す癖があるから、他人の文字もすぐ感情に見えるのでしょう。
もちろん文字で感情を表すことも感情を読み取ることも出来ます。でもそれは、感情で書いたり読んだりしたら出来ないことだと思います。
そういう感情のコントロールが出来るようになってからしましょうよ。

武道の稽古もネットコミュニケーションも一緒です。
まずはただの物体を冷静に観察する能力が出来てから、次に進むべき。止まってる物体を斬れるようになってから、動く人間が斬れます。
ものごとの道理は簡単なのです。
その簡単なことも出来ないうちは、あまり偉そうなことは言わないようにしましょう。
お互いの冷静な分析なしに簡単に判りあえると思っては駄目です。判り合うには時間が必要。そして互いの努力が必要なのです。

合気道では精神うんぬんを言う人も多いですが、和合うんぬん言う人も多いですが、多くの方々の言う精神や和合と合気道の精神や和合とはレベルが違います。簡単な気持ちで口に出したら恥をかくし、発言者の程度も見抜かれます。
表面的な仲良しごっこが和合ではありません。表面上の優しさやいたわりが愛ではありません。
ですからから判りもしないことをあんまり口にしないようにしましょう。説明も出来ないこと書かないようにしましょう。

お臍でお茶を沸かさせないでください。