いろいろなところでよく聞く言葉ですが、居着くとはどういうことなのでしょうか。
武道の世界では居着くということが、悪いことだという意見が多いようです。
それに対して、居着くことは悪いことばかりでもないというのが、僕の意見です。
もっとも、この居着くという言葉も、それぞれ人によって解釈が違うようですので、これも一概に言えるものではないようですが。
一般的に居着くとは静止している状態をいうようです。
しかし、見た目は静止しているようでも、実は内部で力が流れて巡っている状態のことは、居着きとは言わない人も多いようですね。
合気道ではスミキリということを言われます。これは独楽が高速回転をしているとき、外見上は静止しているように見えて、実は触れるものを弾き飛ばす状態ということです。
これは居着くとは言わない方も多いようです。
杭を地面に打ち込んで、全く動かない状態が居着きであると言う人もいますね。
それに反してスミキリの場合は、自由に動くことが出来るので、居着きではない。これは浮いた状態だと言うことです。
居着きはよくなくて、浮きということがよいと考えられていることは、多いようですね。
しかし、世間が浮きということを評価するほどには、僕は浮きを評価していないのです。
浮きが評価に値するのは、移動ということに関してですね。止まるべきところではきっちり止まることが大切だと思うのです。
地面に打ち込んだ杭だって、勢いよく走ってきた人を大きく転ばすことが出来ますからね。
またこの世の中は、陰陽のバランスというものが大事な世界ですから、居着くことも居着かないこともどちらも大切で、浮きが大切なら、沈むことも大切なことだと思いますね。
むしろ居着くとは外見的なものではなく、相手と自分、あるいは周囲と中心などの、相対的関係でみるべきものかも知れません。
例えば、合気道においては自分の周りをぐるぐると何周も相手を廻すように誘導することがあります。
このとき相手は動き続けているのですから、居着いてはいないということになるかも知れませんし、スムーズに動き続けているのならば、浮いた状態といえるのかも知れません。
しかし、結局技を掛けられて、投げられたり抑えられたりするのは、周りを動き続けている方ですね。
ところが合気道では、相手の周りを自ら廻りながら中心にいる相手を次第に自分の自由にしていくやり方もあります。
結局、居着くということを目で見る範囲で考えると、いけないのだと思います。
では居着くということは何なのでしょうか。
簡単に言わせていただくと、変化をしないということが、居着くということではないでしょうか。
完全に静止して動かない状態も居着きなら、動いていながらでも等速運動の状態。あるいは加速減速などの変化しつつある状態でも、それが予定上の変化である場合など。
また自分と相手とが、同じ方向に同じスピードで移動している状態では、相対的な関係においては互いに静止しているのと同じではないでしょうか。
だいたい僕たちだって、高速回転している地球というものの上で生活をしているのだし、その地球さえもこの宇宙空間を高速で移動しているのですから、世の中に静止しているものなんてないと言ってもよいものでしょう。
だから動いてるか止まっているかなんて、観方を変えれば何とでもとれるものだと思います。
したがって、居着くの居着かないなどというのは、相手と自分の関係において決定されることで、そのときそのときで適した選択をすればよい。常にその選択をし続けることが、本当に居着かないということではないでしょうか。
居着くとき、というより完全に止まるときは止まればよいのだと思います。浮くときは浮けばよい。浮いてはいけないところもあるはずです。自然にそうなるところで素直にそうなればよいのです。
それが素直に出来ないことがあるのですね。
それこそが居着きというものでしょう。
居着きもやはり心の問題でもあるのでしょうね。