「武」というものの本来の姿はどのようなものでしょうか。
今回は武術というものが、果たして人を殺すものとして、この日本で発展してきたのか、僕の考えを述べてみたいと思います。

翁先生は武は愛を守るものとして、考えておられました。
愛とは何かについては、僕の解釈では、「あ」宇宙の「い」心であり、宇宙の心とは産まれて、成長し、死を迎え、また産まれる事を繰り返し繰り返し行うことによって、発展していけというのが宇宙の心、つまり愛ということです。
従って愛とは誕生、成長、健康、喜び、感謝などさまざまなプラスの面と同時に、死、老衰、病気、苦しみ、憎しみなどの全く正反対のマイナスの面も合わせ持ちながら、なお全体的にはプラスの方に向かって行こうとする意志であると考えています。

この世の中に正反、善悪、明暗など相反するものを合わせ持っていないものなどないと思っています。
ですからまず武術というものも、人を殺す技術としてのみ発展してきたと考えるのは過ちではないかと思います。
むしろ人を殺せる可能性を持ちつつも、世の中の平和を維持し世の中の発展のために貢献することが、武の本来の目的ではないかと思います。
翁先生の御口述の中に、「昔から、武道は誤って人命を絶えず殺し合う方向に進んできた‥‥」の一節がありますが、これは翁先生独特の、おおげさな言い回しをされたものであり、近代以降、世間の覇道的なものの考え方に迎合する形で発展してきた武術界、武道界に対する批判をも含めたものと解釈しています。

古来、特に平安時代の頃から日本には生や罪や死を忌み嫌う思想があり、特に死んだものに対する嫌悪感というより、恐れは現代の我々の比ではなかったと思います。
ですから死や死んだものに接する仕事は差別を受けてきました。
現代の罪を取り締まる警察のような仕事でも「不浄の~」といわれるくらいですから、それ以上の死に関する仕事に対する人々の思いは想像できると思います。

武士という階級も、もともとは下層の階級というより令外の官、つまり政府の正式な機構に組み込まれない、言ってみれば、現在の暴力団のような存在であったといえるかもしれません。
やがて武士階級のクーデターがおこり、世の中の実権は武士階級が握ることになっても、幾度かの戦乱の時代や局地的な戦いは除き、人を殺めるなどということが、この国において、そう頻繁に起きたことではないような気がします。
武家の統領たる将軍でさえも、何代かすると貴族化してしまいます。

江戸の平和な世の中で幾多の武術が登場し発展してきますし、多くの武士が一応剣術等を習ったのでしょうが、果たしてどれほどの人間が人を斬るための修行をしたのかは大いに疑問に思います。
例えば忠臣蔵で有名な大石内蔵助は東軍流の達人であったとされています。
しかし代々の家老職たる彼が東軍流の修行にあたって、自分が人を殺めることがあるなどと考えて修行したとは考えていません。
実際に彼は生涯人など斬ることはなかったでしょう。テレビや時代小説や講談やで華々しく繰り広げられる斬り合いなどは、ほとんどが作り事ではないかと思います。
江戸時代の武術のほとんどは人を殺す技術よりも、むしろ精神論に重きをおいたものであり、修行をするものも人を殺すためのものというより、心の支えとして、あるいは一応の心得として、あるいは最近の学生のように肩書として、または文化サロンのように教養や趣味の代わりに、というものが多かったのではないかと思います。
剣術に比べ柔術などは、より活法としての意味合いが強かったのではないでしょうか。
ほとんどの武術が型武術として伝承されてきたのは、本来人を殺す技術としての比重が少なかったのではなかったかと考えています。
やはりこの国は人を殺す技術などが栄える風土ではなく、そのようなものでは到底世間の認知を得ることができなかったと思います。

武術が大して実戦に有効でなかったことは、幕末の志士達でも一流の流派の免許皆伝者達がいとも簡単に斬られていることでも分かるのではないでしょうか。
新撰組があれだけ恐れられ成果を挙げたのも、多人数で少人数に当たるとその戦法と後ろには死しか無いという、必死の心構えと鉄の掟があったからでしょうね。
また薩摩の示現流は余計な技巧より、相手に対する踏み込みを第一に考えていたから強かったのでしょう。
結局平民の力に武士が屈する形で一時武術は衰えてしまいます。近代兵器の前に刀や槍は対抗できなかったのですから。

西南の役に代表される、士族の反乱での抜刀隊の活躍などで一時見直されもしましたが、士族階級の不満を解消するため、不満を海外に振り向ける軍部強化、国内の産業・国土の開発、いわゆる富国強兵の国策などと合わせる形で武術の復権ということがなされたのでしょう。
そのような時代の流れに乗った形で、講道館柔道が登場してきます。嘉納先生の柔道が大きく発展したのは、試合形式の導入とさまざまな柔術の理合を研究して一般に分かりやすい理論でまとめたからだと思います。
柔道が表舞台でその強さを世間にアピールしていったのとは逆に、武田先生の大東流は裏舞台でその実戦性を高めていったのだと思います。
僕は大東流のあの凄まじい威力を持つ術理は、武田先生一代で築き上げられたものと考えています。武田先生の大東流はまさしく人を殺すための技術であったと思います。
嘉納先生により試合を取り入れ、戦うという形で発展してきた柔道やその他の現代武道。武田先生によって人の命を奪う方向で進んで発達した柔術の技法。
武術や武道が人を倒すもの、殺すものと多くの人々が認識するようになったのは、このような流れを受けた明治以降だと思います。

植芝盛平翁先生は、大東流の技に驚嘆し一時傾倒もしたでしょうが、元々人を殺したり傷つけたりすることに興味がなかったのでしょうね。 だから出口聖師のお言葉で未練なく大東流を捨て、全く反対の立場を取られたのだと思います。
ただ、入門してくるお弟子さんたちが翁先生の考えを理解していたかというと、そのような人はむしろ少なかったのではないでしょうか。
翁先生のさまざまなお言葉を自分勝手に解釈して、別の方向に行ってしまう人も多かったのでしょうね。
大体合気道に入る前に何らかの武術を学んでいた人がほとんどでしたから、やはり根本の思想的な部分には前にやっていたものがおおきなウェイトを占めていたと考えます。

さて、日本には武を象徴するものとして剣というものがあります。また剣は勇気を象徴するものでもあると思います。
元々剣はツルギといわれ、現在のような片刃のものでなく諸刃のものであったのは皆さんもよくご存じのことでしょう。
人を殺傷する用途以外に、祭祀の道具として使われていたこともご存じのことと思います。
このことから考えて、ツルギとは邪まなものを祓うというのがもともとの目的であったのだと考えます。
おそらく大昔の人達は邪まなものを他人だけでなく、自分自身の内にも潜むものと考え、神意に従ってその邪心を祓うためにツルギを使用したのではないでしょうか。
ツルというのは釣り合いの意味、つまりバランスの意味と思います。
ツルギとは相手が間違っているか自分が間違っているか、神の審判を仰ぐための道具であったのではないでしょうか。
とは言いながらも、どの時代の人にとっても自分自身の非を認めることは難しいことであったろうと思います。自分よりも相手に非を押し付ける方が楽だったに違いありません。
ですから時代が下ってくるに従って、自分は傷つかず相手のみを傷つける、あるいは殺してしまう片刃の剣に形を変えてきたのだと思います。
日本の神道思想が外来の文化に影響されてきたことで更に拍車が掛かったとも思います。
このころから武というものが、本来は自分の内にも潜むかもしれない邪心を祓うための勇気ともいえるものから、単に他人を邪まなものと考え、これを殺傷するものへと変わってきてしまったのではないでしょうか。
も ちろん多くの武術家、宗教家、思想家たちが、武の本来の目的に気づき多くの人達にも影響を与えたでしょうが、大きな時代の流れ、世の中の流れの中で現在に至り、また近年作られた格闘技などという言葉のお蔭で、たくさんの人達が武道についての認識を誤っているものと考えます。

しかし武道は人を殺すため、殺すことによって発展してきたという言葉はある意味で真実だと思います。
この20世紀は科学が飛躍的に進歩した世紀でありましたが、この進歩の多くは、より多くの人命を奪うためにまた奪うことによって成り立ったものである事実を忘れてはならないと思います。
僕たちが利用しているパソコンも、生活を豊かにしている合成物質も、人命を救うための医学でさえも、軍事あるいは多くの人体実験や動物実験の犠牲の上に成り立っていることを忘れてはならないと思います。

人だけでなく、この地球上の生物は、自分の生を維持するために他のものを殺すことを宿命として持っています。
かといって他のものを殺すために生きているのでなく、生きるために殺している訳ですから、あらゆる生物の目的は殺すことではなく、生きることでしょう。
ライオンの牙は獲物を殺すためにある訳ですが、だからといってむやみやたらと殺す訳でなく、自分たちが生きるためにしか使いません。
殺すとはもともとコロす、つまり転換するという意味ではなかったかと考えています。
他のものの生を自分の中で生かす。殺したもののエネルギーを取り込んでより意義のあることのために使わなければ、殺されたものたちへの責任が果たせないのではないかと思います。

核分裂の力は大量の命を奪うと同時に豊かな生活も実現しました。
しかし豊かな生活は未来へのツケでもあります。豊かな生活を実現するため登場した多くの塩素化合物は、現在深刻な問題を僕たちに突き付けています。
この世の中のものは全て諸刃の剣のようなものです。いつどちらに転ぶか分からないものです。
そしてどちらがよいか悪いかなどは、人類などの浅はかな知恵などで計るものではないのかも知れません。
またどちらを選ぶかはその人の勝手かも知れません。
しかし僕としては、宇宙の意志は正と負の間を揺れ動きながらも正の方向へ、生と死を繰り返しながらも生のために進むものと信じ、従っていきたいと思います。

でもやっぱり、武道家は人を殺せるだけの力は持っているべきだと思います。
世間には武道を護身術として学びたいと言う人もいます。子供がいじめに合わないようにと習わせる親もいます。それはそれでその人たちにとっては切実な問題かも知れません。武道を始める動機としてそういうことがあっても構わないと思います。
僕が指導者としてそれらの人に言うことは、合気道の技は、絶対に人を傷つけるために使ってはいけない、ということ。そんなことを考えてもいけないということ。
しかしそのためには、必殺の技を身につけなければいけないということ。中途半端に人を傷つけるような技など、かえって大ケガのもとでしょう。
ストーカー対策にと入門してきた女性に、合気道が身につくころには、ストーカーなど寄ってこない年になっている、と言って辞めさせてしまったことがあります。
校内暴力で生徒に殴られると言う教師がいます。そんな人には生徒に殴られるよりももっと痛い思いをしてもらいます。
いじめの問題は親がしっかりするべきだと言います。暴力に対して暴力で対抗していては、きりがない。余計に恨みを買ってしまうことにもなりかねません。
学校に護身のためと言いながらナイフを持って行くようなものです。そんなものを持っていれば何かの拍子で使ってしまうかも知れません。一度でも使ってしまえば取り返しがつきません。
武道家たる者が、素人相手にケガなどさせてしまえば、武道家生命はなくなります。少なくとも僕はそう思っています。
そんな目に合いたくなければ、本当に強くなるまで決して争いで使わないことであり、強くなったら絶対に争いを起こさないことでしょう。
そのためには一度使えば必ず相手をコロせるものを身につける。
しかたなくケンカの仲裁をすることもあるかも知れません。
しかし目を合わすだけでとはいかなくても、少なくとも腕を掴むだけで、相手が動けなくなるほどのことが出来てこそ、人と決して争わない、ということが可能になるのではないでしょうか。
自分に対する絶対的な自信、自分が宇宙の心に反するようなことは決してしないという自信を強めていく。
それが翁先生のおっしゃるところの武の道であると考えております。