僕が合気道に興味を抱いたのは、ほんの偶然書店のビデオコーナーで大東流合気柔術六方会のビデオを見かけたことからです。
価格的にも安価だったこともあり、何の気なしに購入しましたが、その内容には驚きました。
今まで相撲、空手、柔道などにしか接したことのなかった僕には、気で人を飛ばすなどということが、にわかに信じられなかったのです。
でも、大の大人がインチキのようなものに真剣に取り組む筈がないであろうという、半信半疑というのが正直なところでした。
子供のころより、超常現象のようなものに疑いを抱くことの少なかった僕は、これもやはり超能力の一種だろうかと本気で考えたものです。
いろいろあって結局合気道の道場に入門した僕は、最初のうちはこの力ばかり必要なこんなお稽古が、気というものどうやって結び付くのか全く分かりませんでしたし、先生方もビデオのような技は見せてくれません。
結局そんなものはないのかと思ってあきらめるのが、普通なのかも知れませんが、そのころすでにいろいろな書籍やビデオを買いあさり、気の実在を信じる気持ちの強くなっていた僕は、単にここの先生たちのレベルが低いだけで、気というのは必ずある、これは自分で見つけていかなくてはならないのだろう、という勝手な結論を導きだしました。
先生方や周りの方々の人柄にひかれていたこともあり、翁先生の思想にも大いに感ずるところのあった僕は、道場をやめるということはせずに、他の道場や他流派や他武術にその糸口を見つけようと、見学・体験・研究を始めました。
また難解であった翁先生の道歌・道文の本格的解釈を求めるため、神道の研究も始めました。
道場のお稽古では脱力ということに重点をおき、気の作用によって技を掛けようということだけに専念しました。
ですが脱力に専念する間に、足首・肘・肩・腰・膝・両親指第一関節を痛めたり壊したりしてしまいました。
常にフニャフニャして無抵抗で技を受け続けるので当然の結果でしょう。僕のようなゴツイ体の者(当時175cm、85kg)に普通の人は手加減をしません。
そして僕の掛ける技など女の子にも効かないどころか、体を普通に動かすことにさえ支障をきたしていました。
今でもその後遺症はいたるところに残っています。
しかし体を騙し騙ししながら、日常生活や稽古を重ねていたある日、ふとしたことで、本当の脱力の意味と力の使い方に、突然に気づくことが出来ました。
何のことはない。
自分と自分以外のものとの関係を考えること。
関係が適切であれば不要な力は出す必要がない、必要以上の力がいるのは自他の位置関係等に無理があるからだ。
実に当たり前のことに気づいたのです。
もちろん大切なことはまだまだあるし、違うことから気づく場合もあるでしょうが、僕の場合はそれからどんどんさまざまな新しい気づきが始まりました。
一つの気づきがきっかけとなってあらゆるものが変わってきます。そしてそのあらゆるものによって気づきについての確信が深まります。
合気道の技の解釈、翁先生の道歌・道文についての解釈、日頃先生方がおっしゃる教えの解釈、そして人々や世の中を見ていた目さえも。
気づきを得るということは必要ですが、僕がケガを重ねて得た気づきを、他の人が同じような道を歩んで得る必要は、全くありませんし、同じことから気づき始める必要もありません。
人によって指導方法が異なるのは、それぞれの人によって気づきを得たことがらや順番が違うからでしょう。
大切なことは人それぞれによって違う気づきを見逃さないことです。
僕はその人がまず何に気づきやすいかを見極め、その気づきを見逃すことのないよう、細心の注意を持って観察しながら指導しています。
僕の指導を受ける人には僕が3年という歳月で得た「気づき」という体験を、もっと短い期間で苦労することなく与えたいと思っています。
そして僕の合気道歴というものだけでなく、数十年という人生の中で得たものを、もっと簡単に伝えられるようになりたいと思います。
指導の技術というものはそういうものだととらえています。
だからといって決して楽だけをさせるつもりはありません。はじめに楽をした分は後で苦労が待っていることも教えています。
僕はまだまだその人たちの先を歩き続けるつもりですが、いつの日か彼らが自分たちで苦労して道を切り拓いて行くことを期待しています。
まだその気にならない者に、本物を教えても分かることはありません。翁先生や先師や数多くの先人方もそのような思いではなかったかと考えています。
合気道は翁先生のたどり着いた境地に至る道ではなく、翁先生が切り拓かれ先人方が整備し拡張し、また新たに拓き進めたその道を、その後を引き継ぎ切り拓くことを続けていくという、信念の道だと考えています。
翁先生は、道の途中まで私たちを導いてくださり、また行き着く先を教えてくださった。そして最終目的地に至る道の切り拓き方を、教えとして残してくださった方であると理解しております。