僕は自分が教える合気道や稽古内容について、かなり明確に打ち出していると思う。
「おむすび会」は中高年のための健康維持運動が中心であるし、「大阪武道術理研究会」は、実戦や試合で役に立つ技術。
稽古内容を動画にしてアップもしてるから、勘違いして習いに来る人も少ないと思っている。
しかし世間を観ると、とりあえず入門して、入門してから何を学ぶか教えてもらおうなんて人が多いように思う。
まあ入ってしばらくは受身の仕方や型を覚えるのに必死で、自分が何を学んでいるか会の方針が自分の志向と合ってるかなんてわかりはしない。
受身や型を少し覚えたところで、余裕が出来て周りを見るようになる。
その時に、当初自分が漠然と抱いていたイメージや好みに合わなければ辞めるし、辞めるほどでも無ければ続けるのではないかと思う。
この僕の経験を言うと、子供の頃から相撲空手柔道剣道など武道全般が好きで中途半端にやったりもしていたが、大東流合気柔術のビデオで触れただけで人が飛ぶのを見て、
「なんじゃこりゃ?こんな武術があるんか?本当にあんなもんで人が飛ぶのか?」
と半信半疑の興味を持った。
大東流合気柔術の道場が近くになかったので、大東流から分かれた合気道の道場にとりあえず入ったわけだが、ご存知のように合気道の道場では触れただけで人が飛ぶような技を、まず教えてはくれない。
3ヶ月ほど通った頃、稽古中に足首を捻挫して数週間松葉杖を使わなければならなくなったのを機に、道場に行かなくなった。
道場に行かない間、買い込んでた本を読み、合気道が実は神道と深い繋がりがあることを知り、今度は神道の研究をしだした。
そして約半年後、道場稽古に復帰。
最初とは全く違う目的で合気道に取り組みだした。
食事もぐっと減らしほぼ菜食にし、20キロほどの道場と家の間を自転車で往復し、午前中は吹田の大阪合気会本部道場稽古、夜は大阪市内の道場稽古と暇さえあれば道場に通い、会社勤めを辞め、やがて都会暮らしを辞め吉野に移住するに至った。
なぜ吉野に行ったか。
一つは、合気道開祖が北海道開拓や岩間で農耕をしていたという話を知り、農林業に携わりたかったから。
そしてもう一つは、吉野の山で働くことで、役行者の修行のような悟りを得たかったからである。
真面目な話。(笑)
山に行った効果はすぐに出た。
そりゃ毎日何千回と鎌やナタを振って草木を切り鍬を振って土を耕し、険阻な山を昇り降りするのである。
否応なしに正しい動き方が身につく。つかなきゃ仕事がはかどらない上にしんどい。
何人かでグループを組んでの請け負い仕事なので、仕事が出来なきゃ仲間の負担になるし、いつまでもその状態なら仲間に入れてもらえない。
つまり仕事が無くなるのである。
仕事の技術を得ることは、生きる上での必要不可欠であった。だから身についたのである。
そしてその技術は、日本の武道武術の基礎となる動きだったのである。
ある程度仕事を覚えて余裕が出来ると、山を降りてK市にある合気道道場に行くようになった。
しかし、数ヶ月で辞めた。
習うべきものが無かったからである。
当時合気道二段。K市の道場には四段五段が何人もいたしそこの師範は七段。
誰も僕の納得出来る技を掛けられなかったし、そのうち有段者は誰も稽古相手をしてくれなくなった。
そこで奈良市にある、大阪合気会傘下の道場に週一回通い、仕事の無い時は大阪にまで出掛けた。
しかし大阪合気会傘下の道場でも、稽古相手はどんどんいなくなった。
仕方が無いので自分で私塾を作って、人を集めて教えだしたのである。
今後、僕のような阿呆は合気道の世界では出て来ないと思う。
だから僕のようになりたいと思う人が習いに来たとしても断る。
もちろん今までも、そんなのは来たことがない。
そして当然、僕の思想や思考は、現在の僕の合気道の境地に立脚している。
技術と視点が土台としてあるのだから、僕と同じ技術・視点が無ければ同等の思想や思考には至るはずがない。
僕は、僕の技術や視点や思想や思考の根幹は、教えても無駄、習おうとしても無駄と、端から諦めているのである。
ただ、根幹は学べなくても、枝葉は見える。話は出来る。
だから動画もアップするし、セミナーも行う。
適当な運動する場所を作ることも出来る。
まあそんな感じで後何年か何十年かお気楽に余生を過ごすつもり。
お付き合いくださる方々はそのつもりで適当なお付き合いをお願いしますね。