最近の柔道や空手道が子供たちになにをどう教えてるか、詳しくは知らない。
ぶっちゃけ合気道のことだって知らない。
この僕自身だって、合気道の道場で精神的なことについて教えられた覚えがない。
僕の先生方は少なくとも僕に対してはそういう話は避けていたと感じる。
他の人に対してはどうなのかは知らない。
ただ、僕が入門当時の道場には確かに合気道の綱領と信念が掲げられていた。

綱領

これによって僕は合気道のなんたるかを知ったつもりであった。
また入門した会派の創設者の残されたお言葉も個人的に学ばせていただいた。

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合気道は精神力の養成であります。
精神力とは、宇宙創造の神であり、御中主の大神である。その主(ス)の根源から湧き出ずる気が精神力である。
これが霊体の響きである。
霊体の響きとは、宇宙の神霊であってこの響きこそ肉体を助ける呼吸である。
心は肉体の一部であるが故に人間は返り咲いて行くのである。この返り咲く動きが天地の動きである。
これ動静の世となり、神人和合の世となるのであります。

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道祖の言葉に合気道は、宇宙の真理から見て自然の理道でなければならない。
すべて理というものはことごとくすじみちである。
理を溶解して表に現れるものを法という。
合気道は法である、
天授の真理の武産合気の妙法であると仰せられた。
道祖の術は神秘的でわらわれは到底わかるはずはありません。
至誠心の養成はまず自己に打ち克つことから精進して行かねばならん。
修行の方法を一言すれば、技は入身転換術を以って一を以って万にあたる道。
一より万有にわけ、喰い込み、喰い合わせ、喰い止まってこそ体は霊を護り、霊は体を護るべき理の筋道である。
これを入身転換術の心線なり。故に体の変化は極りなき極意の道であって象(かたち)のない理と法の道である。

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合気の道は四天の気の動きであり、四方八方と恵み得て中心を正して行くのである。
合気道を学ぶ条件は心の中心の研鑽にある。
形に縛られて学ぶのではなく、合気道を全体から見て、中味を理解するのである。
とくに合気道は大和魂を持つ日本人の心(精神)と肉体と言語が結びついて合気道の本義を守り、目的達成するにある。
合気道は、投げることを考えるより、和することを考え(正しい同化)相手は何を考えて何をするかと先々の気をとらえ、相手の隙にさばき込むのである。
商魂も同じである。それは正しき中心を知り「ス」の根源によって恵を与えるにある(スとは中心の元である)合気道の極意は形ではありません。
心は自在に生じ、気は一切を支配する本源であり、精神活動の奥深き中心に全力を集中し、心に響きを与え、心の奥底に清き澄み切りし心を深くきざみ込み、一元の本源または本質たる道主の霊現をはじめて一切の心が読みとれるのである。

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合気道の精神によって、天地の筋道を会得して、大いに心魂を清め、争いのない心境に立ち、この世が平和となるよう「人」の大道において、合気道を普及発展せねばばらない。
合気道は宇宙の条理を明示し魄の上に魂をのせ、魂の比礼振りによって行をなさねばならない。したがって敵をつくらず、何事も自己の腹中に胎蔵―大和の精神、万有愛護の精神をもって抱擁して行くことであります。

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合氣道は天地自然との合体をめざす絶対不敗の理念にもとづく精神武道である。
合氣道は技の形にとらわれず、氣の法線を知り、心線を悟り、自己の氣の流れに喰い込み喰い合して行く道である。
之、呼吸の妙なり。心の妙なり。
大自然の英知を悟り、即ち、腹に自然の英知宿りて氣の先々の流れを知り心の姿勢を正すにある。
心構えとして常に氣線を整えておらねばならない。
氣線とは相手が動く前に先々をくみとって進む道をいう。
所謂、相手が動く前に法線を正しく氣線を整えて速やかに同化すること。
喰い込みを速く先手をとられないこと肝要なり。
道の働きは相手の心を我が心とし、一体となる道に順じ二つが一つとなり、その一つの中心を以って円輪の如く、又は渦の如くに中心に巻き込むよう技をなす。

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合気道の中味は修行する方にわかるものであって素人にはわからない。「ということは」合気道の行動は霊体であるからである。
よって気に合わないことをしないのが合気道である。「故に理道とか精神とかいうのです」
入身転換術は真の合気武道である。
相手をつくらず、自己丹誠の道である。
人には人なりの行動精神がある。
いわゆる気力(念力)である。
精神の道は自己のみ知るものであって、 を悟り、腹の中に画き出さねばならない。
極意の道に形はない。◉の中にあること知ることである。
いわゆる螺旋の動き(渦巻)の中に真の合気道の極意があることを知り、研鑽することである。

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合気道は精神武道である。精神の道に形はないのです。
至誠心をもって心と魂の業を重ね正しい気の流れを身につけることである。
形はの象になり、気線を正し天業をなさねばならない。
稽古にあっては四隅の御徳をいただき、寸隙なき入身転換法をもって捌くことである。
この徳によって五光の御徳をいただき、天地の理に従し、水火の真妙を見いだし、光熱の出ずる道を思考し、
宇宙の気を捉える研鑚をしなければならない。
この道こそ入身転換反射道である。

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反射道の道は、合気道の最も高度なる大自然の道である。
道の業は、大自然の働きによって天地の理より来る邪気を払い、美しき世と清むる道である。
合気道の修研者は、常に天空と交わる修行を以て業となし、真の合気道を産みだし、水火陰陽の光徳を見いだして、美しい気の流れによってヒビキが、天声と交わって、この世の中にひびきわたるよう、合気道の道を開かねばなりません。
爾今、合気道は入身転換反射道である。

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しかしこれらのお言葉を真面目に捉え、真剣に取り組んで来た合気道人を僕は知らない。
なぜであろうか。
ぶっちゃけ言えば、「変態扱い」されるからであると思う。
まあ今まではサヨク優位の時代であった。
僕らより少し上の年代は団塊の世代。
戦うことや精神論を嫌った世代ではないかと思う。
僕は彼らがこの日本を情けなくしたと考えてるし、武道界もダメにして来たのではないかと考えている。

日本は連合国との戦争に敗れた。
そしてその原因の多くを、精神論偏重と技術軽視として来たように思う。
しかし実際はそうではない。
日本は、精神的に負けていたのである。
第一線に出ている兵士たちではない。負けていたのは政治家そして軍部の高官たちがである。
彼らの精神さえしっかりしていれば、日本はあんな無残な敗け方をせずに済んだと僕は思う。
日本には技術はあった。しかし、それを活かすだけの精神力が無かったと僕は思う。

さて昨今の武術家や武道家、特に団塊ジュニア世代以降。
ことごとく精神を軽視しているように思う。
口先ばっかで技術を語りたがる。
ちょっとした困難にぶつかると逃げる。
踏みとどまって頑張ること、受け止めて押し返すこと、そういう精神力に欠けてると感じる。
心が動かずに体動くか。
ゆえに、生徒たちや弟子たちの精神を鍛えようとしない指導者たちのことを、僕は認めたくないのである。
武術ってのならそれでいい。武術は技術やからな。
しかし、武道とは名乗るなよ。
武道とは精神の道のことであるから。

今でこそ合気道や空手や言うとるが、一番最初に影響を受けたのはやはり、柔道であった。
やはり子供の頃にこういう歌を聞いて育たなければいかんのではないだろうか?(笑)