以前、伝統派空手の組手競技指導の第一人者と僕が認定ている某達人とほんの少しお話をした。
空手のど素人の僕が生意気にも、
「日本の空手にはコントルアタックが無い」
と批判したところ、某達人は意外にもこういうお話をしてくださった。
「コントラタック(Counterattack)」は、某達人がフランスにいた頃に随分と使っていた言葉だったそうな。
そして1990年代に日本選手たちが動きのおこりを捉えられてカウンターで続々と負けていたのにもかかわらず、日本では必死に「外人の蹴り対策」を練っていたことを思い出されたそうな。
某達人は当時、外国のコーチという立場ではあったが、「蹴りよりもおこりを捉えられない練習が先決だろ」と地団駄を踏んでいたそうな。
達人はさらに言った。
「センスの良い選手ほど、相手の動きに反応できるので、間を切ってしまいます。となると、相手の攻撃の間を切れるが、自分の間にも入れない。お互いにゼロゼロのままとなってしまいます。 相手が出てきた時に自分も前に出る。これが最高のカウンターでしょう。勝負においては『コントル・アタックと気持ちの強さ』が大事です。」
「日本人にはコントルアタックがないことは、試合中のアドバイスに現れています。
『先に行けぇ!』『前に出ろぉ!』
これらのアドバイスは、決して的外れではないのですが、センスのないやつがこのアドバイスを解釈すると、特攻隊組手になってしまう。
『先に行け!』が『先を取れ!』になれば、面白いように勝てるんですけどね。別に玉砕する必要もないし。」
そう。やみくもに前に出るだけでは気持ちが強いとは言えない。
勝つために前に出るのなら強いがヤケクソは弱いからすること。
ではそのコントルアタックは難しいのか?
技術的にはさして難しくないと僕は思う。
多少難しいのはコントルアタックをする精神力を養成することだと思う。
まあその精神力だって、「慣れ」によって図太くなってくると思うのだが。
某達人の知る空手の常勝高校では、一年生の時から徹底してコントルアタックの練習をさせるという。
まずは打撃を怖がらないことを徹底して体に覚えこますことが大切。
人間の本能に任していてはいけない。
武術というのは、普通の人と同じ感覚ではいけないのである。
普通の人と違うからこそ、「術」の価値がある。
一般常識と同じでは普通の人にも技なんか掛からない。
相手が武道経験者なら、その人の常識をも超えた技をしなければならない。
十分に頭で考えてから動いて、その動きを頭に焼き付けねばならない。
何も考えずに何の気なしに動いても体は動きを覚えるだろうが、そんなワンパターンの動きでは技にはならない。
状況が変わっても変化出来ないからである。
その時々で状況は変化する。
やろうとしたことが上手くいった時いかなかった時、その時の状況はどうであったのか、分析して反省しなければならない。
何の気なしにやってても状況分析なんか出来るわけがない。
出来たならレベルを上げる。出来ないならレベルを下げる。
同じこと同じレベルの反復練習ではいけない。
「稽古」とは繰り返すことではない。
常に考え、変化すべきである。
そして、コントルアタック=枕をおさえるである。
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>枕をおさえるということは、頭をあげさせないという意味である。
>兵法勝負の道に限って他人に自分を動かされて、後に付かされることはよくない。どんな場合も敵を自在に操りたいものだ。それで敵もそうしたいと思い、自分も同じ気持ちなのだが、他人の出方を読めない限りこれは難しい。兵法では敵が打つのを止め、突くのを抑え、組み付くのをもぎ離すという手がある。
>枕をおさえるという手は、兵法の正道を会得して敵にかかるならば、敵のどのような意図をも、敵がやり始めないうちから予測して、例えば敵が打つという、打つの「う」の字の頭を抑え、その後をさせないようにすることをいう。意図のしょっぱな、枕をおさえるのだ。敵がかかるという「か」の字をおさえ、とぶという「と」の字の頭をおさえ、切るという「き」の字の頭をおさえる。
>みな同じである。敵が技をしかけてきた場合、どうでもいいことは敵の自由にさせておき、重要なことはこちらがおさえ、敵にはさせないようにすること、これが兵法の専売特許だ。ただ敵のすることをおさえよう、おさえようとして後手に回ってしまってはいけない。まず自分自身どんな場合も、道にのっとって技を繰り出すうちに、敵も技をしかけようとする、そのしょっぱなを見抜いておさえ、どの技も殺し敵を自由にあしらえることが、兵法の達者であり鍛錬の賜物といえるのだ。
http://nobunsha.jp/blog/post_67.html
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武術武道の技の話だけでない。
仕事でも日常生活でも、コントルアタックが出来れば自分の思うがままに事が運ぶ。
そんなことが出来るものは難しいに違いない。
そんな難しいことは今の自分には無理。
今の自分に出来ることからやろう。
多くの人がそう思う。
そして結局、出来ないことをやろうとする。
コントルアタックは、手品で言えばタネの部分。
タネも仕掛けもなしに手品をやろうとするのが多くの人たちなのである。
そんなこと出来るわけあらへん。
出来たら手品やなしに、ホンマモンの魔法や。
魔法使いを夢見て一生をそれに費やすつもりか?
教えるほうも教えるほう。
手品のタネも教えずに手品教室を開いてるのか?
それは教室やなくてショールーム。
己のパフォーマンスを見せびらかしたいだけとちゃいますか。
会社勤めの人ら、子育てや家事に忙しい人ら、そして学業にバイトに忙しい人ら。
そんな人らに、
「タネはお前らで盗め。お前らで作り出せ」
初心者のうちからそう言うてるのが、多くの道場や指導者ではないか。
手品の手順は教えるがタネは教えないでは、忙しい人らが手品出来るようにはならん。
そういう指導者、そういう入門書やビデオや動画が巷に仰山溢れてないか?
わざわざ教室に出向いて習いに来てくれてる人らには、初歩の手品くらい出来るようにしてあげればどうか。
せっかくタネを教えてやっても練習しない人はいる。
そんな奴はほっといたったらいいでしょう。
教室の邪魔になるんやったら辞めさせてもいいでしょう。
タネを教えるのが手品教室の最低の責任じゃないでしょうか?
武道武術のタネや仕掛けのコントルアタックが出来たら、手品は半分成功。
なんでしないのか?
なんで教えないのか?
「難しいから。高度やから」
稽古しないから難しいんでしょ。
教えないから稽古しないんでしょ。
難しいものや高度なものを簡単に安易なものにするために稽古や練習があるんでしょ。
稽古も練習もせずに難しいのは当たり前。
稽古も練習もせず出来るようなことだけを繰り返し繰したいのか。
で、コントルアタックって、合気道で言うたら一体何のことですか?
相手が出るからこちらも出る、攻撃しに来るからこちらも攻撃する、ではコントルアタックとは言えない。
相手の攻撃を誘い出し、完全に阻止しつつ、こちらの攻撃を決める。
早いもの勝ちの「競争」ではない。
そこには競争は無い。ただ勝ちしかない。
それがコントルアタックの世界である。
『五輪書』にこういうことが書いてある。
「先手」の話である。
>三つの先手がある。第一番目は自分から敵に仕掛ける先手。これを懸の先という。二番目は敵が自分へ仕掛けてくる待の先。三番目は自分も敵も同時にかかりあう、対々の先。この三つだ。どのような戦いのはじめであろうと、先手はこの三つしかない。先手しだいで、早くも勝ったも同然となるわけだから、これは兵法の第一手段といえる。
「空手に先手なし」という言葉がある。
僕は空手の専門家でないから、これが何の事を「先手」と言っているのかよくわからんが、僕ははっきりと言う。
「なんでも先手を取らなあかん」
先に手を出すことが先手ではない。相手に先に出させることも先手である。
よい例が太平洋戦争における、パールハーバー奇襲。
日本軍が先手を取って真珠湾を攻撃したようになっているが、実はアメリカは日本の奇襲を事前に察知して、不要な艦船ばかりを停泊させていた・・・、などという話。
合気道開祖は、「いかなる場合にも絶対不敗」と合気道を位置づけた。
それを「正勝吾勝勝速日」と言われた。
僕はこの「正勝・吾勝・勝速日」を「入身・転換・反射」と考えて来た。
そして「まず入身が出来なきゃ転換も出来んし、反射も起こらない」と教えて来た。
真の入身とは、「中心を取る」こと。
中心を取ったら相手は自分に対して攻撃出来ない。
僕は伝統空手の試合形式を作った最初の頃、剣道競技を参考にして作ったと考えている。
そしておそらく、剣道競技の価値観がかなり入り込んだはずではないかとも考えてる。
剣道の価値観では、まったく動じていない相手に打つのではなく、動揺させたり隙を作りだしてから打つ。
すでに勝った証拠として打つ。それが剣道の醍醐味であろうと思う。
もちろん相手のレベルにもよるが、相手のレベルを見極めて相手を活かして勝つのが真のコントルアタックであると俺は思う。
先手には、「懸の先」「待の先」「対々の先」という三つがあるが、そのいずれもが相手をひるませてその隙を打つ。
相手がひるんだ隙を打つからこそ、一撃必殺も可能になるのである。