世間一般には合気道のことをまだまだ相手の手首を捏ね回したり痛めつけたりして投げる技と認識する人が多いようです。そのような認識の人は合気道の修行者の中にもたくさんいます。
 これはやはり、合気道を創始された植芝盛平翁の心を理解しない、あるいは伝えようとしないお弟子さんたちが多くおり、また戦後の武道統制からいち早く抜けるために精神部分の追求を御座なりにして、スポーツ的な方向に進めた結果であろうと考えます。
 世の中もどんどん心や魂から物質を重んずる方向に進み、さらにはお金を求めるようになる。
 武道という精神の道よりも、格闘技という興行金儲けのものが好まれるようになり、柔道や空手というような武道でさえも、今はその流れに完全に乗っています。
 合気道はまだまだ興行的な部分は少ないとは言え、やはり生徒数をたくさん集めて有段者を排出し、出来るだけ多くの金額を上納することによって、昇段や出世や地位が決まるという方向に進みつつあります。
 ある道衣メーカーが合気道衣を開発していますが、その道衣につける「合気会公認のオリマーク」の認可がなかなか下りないそうです。
 やれ素材のポリエステルのパーセントが高いだの袖の幅が広いだのといろいろ難癖をつけられるようです。
 そもそも、合気道修行者の大方が合気道衣など使っていません。柔道衣や空手衣を使ってる人のほうが多いのです。  しかも、柔道のように道衣の生地の厚さが試合の勝敗にするということが合気道にはありません。試合そのものが無い。勝敗を決めるような競技が無いのです。
 そしてとうの昔から合気道衣を作っていて「公認マーク」の使用を許可されたメーカーの道衣はノーチェック。支那製の粗悪な柔道着だろうがジャージのような生地の道衣だろうがメーカーは好き放題に公認マークをつけています。
 あまりに既存メーカーがいい加減なことをしているので、新規参入メーカーのハードルを上げたのかも知れませんが、それなら新規メーカーに対してだけでなく、既存のメーカーにも厳しく接すべきと思います。
 私はこの「公認マーク」問題を聞いて、合気会自体が本当におかしくなっているなと感じています。
 
 合気会本部道場というのは、合気道においては「支配者」にあたる存在でしょう。支配者に横暴は許されるのでしょうか。
 日本以外の国々の考えからすると、支配者というのは征服者であり勝利者です。
 かつての西洋の歴史は勝者が敗者を征服者が被征服者を、殺したり奴隷にしたりして来ました。それが支配というものだという認識が世界の常識であり、現代日本人の多くもそう思っているのではないかと思います。
 しかし「支配」という文字から考えてみると、支配とは「支える」と「配る」です。英語で言えば「support」と「deal」「serve」とも言えましょう。
 極端に言えばサポートとサービスが支配者の責務なのです。
 下の者を踏みつけたり蹴落としたり富を独占したり、そういうことは日本的な支配の本質からすれば真逆のことなのです。
 こういうことを言うと「また変なこじつけを言い出した・・・」と呆れる人もいると思いますが、私はかつて飲食業でマネージャーなる職をやっておりました。
 水商売でクラブのマネージャーもしたことがあります。マネージャーとは英語では「支配人」です。
 私は数字の管理だけでなく調理係や配膳係や接客係を管理していました。押さえつけたり締めつけたりするだけでは従業員は働きません。まだ私が20代の頃だったので調理係や接客係には私より年上の人や高給取りの人がいくらでもいました。
 安月給のひよっこみたいな若造がいくら建前上の職位が上であっても、上から目線で指示していたら人は気分よく動いてくれません。
 飲食店というものは、お客様の満足度向上のために全員が一丸となって取り組み、評判を高め来客数を高め売上を高め利益を高め、そして従業員の給与を高めサービスを質を地位を高め、そして最後に支配人の評価が高まる。
 全ての他人を勝者にして自分も勝者になる。まさ「WINWIN」の職業であると今も思っています。
 私はこの信念で当時も働いていたし、その信念が基本にあったればこそ、合気道に出逢った時に「勝速日(かつはやひ)」の思想が簡単に入って来たのです。
 しかし飲食業が「顧客満足度向上」や「外食産業の地位向上」などと言っていたのは「バブル崩壊」まででした。
 世間と同じように従業員には「リストラ」「賃金カット」「待遇改悪」を、お客様には「品質低下」「価格低下」「評判低下」を引き起こします。  そのことを予見した私は会社を辞めて「隠遁生活」に入りました。
 
 そして雌伏十年。
 今一度合気道の思想を喧騒と物欲にまみれた実社会で試してみようと都会に出て来たわけであります。
 なかなか難しい道のりではありましたが、立ち上げた事業もようやく軌道に乗り、合気道の稽古指導もなんとか自分の思う形になってきました。 
「俺の仕事と稽古において、俺は天皇である!」 
 阿呆と思われるのであまり人前では言いませんが、私は心の中ではそう思っています。  我が国の天皇というのは、海外の皇帝とは違います。
 神代の頃は征服者としてこの国に来られたのかも知れませんが、仁徳天皇の頃には仁政を布かれてれており、庶民は「大御宝(おおみたから)」と呼ばれて来ました。
 まあ、富を増して繁栄するには庶民の働きがあってこそですから、人を財産とおだて上げることはそんなに素晴らしいことではないかもですが、消費材と観るよりはずっと良いと思います。臣民が富を得て豊かになり、それが税として納められて、皇家は安定する。
 最終的には皇家のために臣民を利用してるのでしょうけど、武力で攻めて財産をかっさらい奴隷としてこき使ってさらに富と権力を大きくするなどという、海外の支配者のあり方とは大違いです。
 合気道は勝速日の道。自他共栄の道、万有愛護の道とも言われます。
 自分の勝利を得るために他人の力を利用するとも言われます。  他人の力を利用するだけして他人に力を返さないのであればそれは「覇道」です。それではやがて他人は力を出さなくなります。あるいはその地位を取って代わろうとします。
 それでは真の安定は得られません。他人が力を出しやすいように、支えてあげる。まずはこちらの力を利用してもらう。まずは自分からサポートとサービス。
 他国では「有り難い」行為が感謝を生み、そのお返しとして還って来る。その循環が巡り巡って隅々に行き渡り定着すると、巡る仕組みとなり「恵み」になる。
 その恵みの中に他人もいて自分もいる。けっして「無私」ではないのが、合気道であり神道の思想でありましょう。  その恵みを生み出す発端であり中心となるべきが、支配人であり社長であり会長であり家長であり、マツリゴトの為政者であり天皇である。 
 
 支配というのはサポートとサービス。その信念に従って事業と稽古を展開し、その結果が間違ってはいなかったことが証明されつつあるかもと思う、今日この頃です。
「情けは人の為ならず。まずは世のため人のためひいては自分のため。」
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ